イギリスを代表する映画監督ケン・ローチの2002年作品「Sweet Sixteen(スウィート・シックスティーン)」

先日週末の夜にTVで偶然やっていたので、そのタイトルからして「胸キュン思春期のホルモン映画」を期待しつつ観賞することに・・・しかし 映画が始まると、訛りの強い英語がポツリポツリと流れ、灰色に薄汚れ滅入ってしまいそうな光景が映し出され、一気にダラダラとした気分に一喝が入り、何故が「覚悟」を決めて観戦。

ドラッグディーラーとしてリスキーなロウライフを送る典型的ルーザーの父親と祖父と共に住み、母親は刑務所で服役中、学校も9ヶ月前から行くことを辞め、 ヤク中の父親に育てられた同じように落ちこぼれの親友と日々煙草を売り歩き小銭をかせぐ毎日、そんな普通の15歳の少年がこの映画の主人公だ。

人は皆生れ 落ちた環境でまずサバイバルを強いられる、これは万国共通。しかし豊かな先進国の貧困ほど正義道徳良識善意の表層に隠蔽され、かつ資本主義の魔力に支配さ れているが故に救いがたいと思うのは私だけか?

生殺し状態、出口なし。

服役中の妻にさえ刑務所内でのドラック販売を平然と強要するような父親&祖父を嫌悪 し母親への恋慕を募らせる少年は、しかしサバイバルの手段として、「ここ」から抜け出すために、愛しい母親を父から救うために、金がなきゃ始まらないとい う資本主義社会の一員として、いともたやすく麻薬販売に手を染めるのであった。

ただ単にヤク中がディーラーを始めるというのではなくて、むしろ「できるこ とならリセットしたい」劣悪環境の根源としてのドラッグを嫌悪する本人が「それ」を金稼ぎのツールとして選択してしまうのがもう既に相当に絶望的だ。

当然 のように地元ヤクザとの関わりを持ち始め、現金回収ビジネスゆえの分厚い札束の権威に己を見失い(ああ、典型的なヌーボーリッチ成り上がりメンタリ ティ)、挙句の果てに手に負えない唯一の親友を裏切り、手にした「アチラ側の生活」とやらは果たして彼の本来の目的であった母親と姉と彼女の子供と平和に 暮らすという、根源としての彼の純真さとはあまりにかけ離れていないか?

答えは簡単にあっけなくこの映画のクライマックスで展開される。

ラストシーンでの 少年atちっとも美しくないビーチ。携帯電話の向こうから聞こえる姉の声は響くI love youと。しかし少年は声に出して答えることができない。そこでやり直すことなど不可能な現実の重みと怒りと悲しみと家族への変わらぬ慈しみを抱え迎える 16歳の誕生日。

現実は残酷だ、けれど逃げ出すことはできない。理性や教義や道徳や良識がひとつでも救いとなりえたのだろうか?答えは明らにそこにある。

マイク・リーの作品やアラン・パーカーの「コミットメント」なんかだと、厳しい現実はちっとも変わんないけど、ささやかな希望は確かにそこにある(あっ た)よね、という痛みを伴うポジティブさ、といった泣き笑いしたくなるような爽快さがあるのだけど、ケン・ローチはそこんとこ超現実派というか殆んどハー ドコアです、挑戦的。笑いも怒りも悲しみもナシ。ただただやりきれない出口ナシの絶望感だけが目の前に広がるのを途方に暮れて見つめるのみ。

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