マリー・シブルスキ監督
ジョン・キューザック製作総指揮
出演:ポール・ディロン・ジュリアン・ムーア・ジョン・キューザック

舞台はシカゴで時は現代クリスマスのとある日。しがないチープでチンケなタクシードライバーの「弱者」として都市に生きるひとりの白人男性の1日をコミカルにそして絶望的なまでの閉塞感と悲哀を背景に描いた秀作。

タクシーという密室、それが3分であれ1時間であれドライバーと客はまったくの他者、まったく別の価値観ワールドに存在する他人同士として時を共有する。

出産間際の妻とハゲシくケンカ中の黒人夫婦、ラリラリの白人ドラッグディラー、鼻持ちならない黒人女性弁護士、ニューヨークから来た典型的な酔っ払いヤッピー、精神異常?の恐怖感を漂わせた挙動不振の白人男性、もういかにも不倫中です!ホテルに行くまで待てません!の爛々カップル、成り上がりのインスタント金持ちの低俗な欲望と犠牲寸前の純朴な受付嬢、キレっぱなしの八つ当たり白人中年女性・・・もうとにかく神経磨り減る客ばかりを乗せ、無教養で低所得ゆえに都市の底辺で生きるしかない主人公は、クリスマスの明るくハッピーな街の雰囲気の中どんどん荒んでいく。

それは怒りなのか諦念なのか?彼はアタマの回転も悪いし明るい性格でもない、けれど擦り切れた服装やゴミ溜めのような車内とは別の次元で、彼の精神は子供のように純真で美しい。

この映画基本的に性善説。人は皆純真でうつくしい心をもってこの世に誕生するのだ。だけど残念なことに環境が人を作り上げるコトになっているので、結果として残酷な現実が今私達の目前にあるし、私たちは「それ」を前提として生きていかなきゃなんない、ということだ。

映画のクライマックスで主人公は善意からオノレの信ずる正義を遂行するが、それは人を傷つける結果となる。

そして後半で客として登場する女性はいましがたレイプされた犠牲者であった。主人公には何もできない。彼は彼女を救えない。自分は何だ?一体何様なのだ?本来気高くあるべき純真さは自分の中にあり腐った環境の中で窒息寸前なのに、何故自分はあるべきものであれないのか?

I am very sorryと繰り返し言うこと、それが彼のできる全てだった。

奈落のような自己嫌悪の最中、ひろった客は裕福なしかし良識ある黒人建築家だ。夜中まで残業中のため夜食を取りにいくためにタクシーを拾ういかにも知識層然としたこの客はつい最近母親を癌で亡くしたばかりであると告げ、主人公はついいましがたレイプされた女性を乗せたと告げる。

there is nothing I can doということはいつでもどこでもあるのだという連帯感のような空気が、主人公と彼の間に流れる。

彼が降りるときドル紙幣を主人公に渡し「釣りはとっておいて」と言う。主人公の表情からしてそれが相当額のドル紙幣であることは明らかだ。主人公は「それはできない」と彼に告げる、が、しかし結局彼に説得されるようにそれを受け取る。

主人公は施しを受けたのだ、主人公はそれを受け入れた。受け入れることで主人公は自分が絶対的な弱者であることを認める。なんたる現実、そして幕が下りる。

しかしながらこの映画の素晴らしいところは悲壮感よりもコメディとしての乗りが一環しているところ。単なるお涙頂戴モノとは一線を画している。ナイト・オン・ザ・プラネットを彷彿させる部分もありますが、私達の世界の悲哀と馬鹿馬鹿しさを上手く表現しているなぁ、と脱帽であります。

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