英国のアシュタンガ・インヨガ講師ノーマン・ブレア氏による2011年のエッセイです。非常に示唆に富み、鋭い洞察に満ちた、しかし愛ある素晴らしい内容に感動し、日本語に訳させていただきました。

オリジナルはコチラ: The Box

Being Inside Looking Outside: An Ashtanga Story
箱の中から外側の世界を見る~アシュタンガヨガ物語

罠にかかったのか、それとも、これは自己変革なのか

アシュガンタヨガの練習はかれこれ15年以上になる。最初はレッドクラスから始めて、1999年よりサーティファイド・ティーチャーの下でマイソールスタイルの練習を始めた。つま先に手を届かせようと躍起になっていた頃から、ポーズとポーズの間を滑らかに繋げられるようになるまで、その道のりはまさに旅路のようであった。

私の興味を引いたのは、このアシュタンガヨガのプラクティスは、神経症を悪化させるのか、それとも軽減させるのだろうか、ということであった。我々はみな多かれ少なかれ、ある程度の神経症的傾向があり、誰もが不安や心配を抱えており、それはユングの言うところの「落ち着きがなく、漠然とした不安を抱えた、心理的な合併症」と表現した現代の病のようなものである。

これはヨガ哲学におけるクレーシャ、すなわち「マインドにおける苦しみ」と言い換えてもいいだろう。クレーシャに相反するのはメッタ(時にそれは「優しさ」と翻訳される)であるが、では、このアシュタンガヨガのプラクティスは、はたしてクレーシャを弱め、メッタを強める効果があるのだろうか?苦しみを滅し、優しさを育てるスペースが、そこには本当にあるのだろうか?

このような疑問を持たざるを得ない我々は、アシュタンガヨガの罠にはまってしまったのか、それとも、これは自己変革の一歩なのだろうか?

スピリチュアル・プラクティスへの変換

ともあれ、パタビジョイスの功績は、アシュタンガヨガというアスレチックな運動の延長をもってして、西洋における「失われた世界」に生きる我々を、インドや東洋の精神世界へと目を向けさせたことだろう。

しかしここで疑問が生まれてくる。アシュタンガヨガは果たして、人生の無意味さや終わりなき焦燥から、我々を解き放ってくれるのだろうか?アシュタンガヨガによって我々は、平安と洞察に満ちた場所へ、少しでも近づくことができるのだろうか?

この問いかけに、「もちろん」と答える人もいれば、「そんなことはない」と反論する人もいるだろう。我々はみなそれぞれが、別々の異なった物語を持ち、互いに独立した存在ゆえ、答えは違って当然だ。

ある人にとってアシュタンガヨガは、こころの明晰な静寂をもたらす「動く瞑想」であり、また別のある人にとっては、心身を酷使し必死にもがいて懸命にポーズの成功を目指すことで、「固執」という自身の古い習慣を、対象を変えながら繰り返しているに過ぎない。

「(アシュタンガヨガのような)ひとつのシステムをゆるぎなく修練すると、“とある何か”が、取り組まれることなく、解決することなく、とり残されることがあり、それはプラクティスの残滓とでもいうべく、無意識下におかれたあなたの人生の側面が、ほぼ間違いなく垣間見てとれるのである。」

とはリチャード・フリーマンの弁だが、どうやら我々には、この「道」を多元的にとらえる必要があるようだ。

恐らく問題となるべき事実は、アシュタンガヨガにハマる人々というのが、それを最も必要としない人々、いわゆる「タイプA=目的達成型」と呼ばれる性格の持ち主達である、ということなのかもしれない。

パーソナリティ

私達のほとんどがそうであるように、このタイプAという性格は、実はアシュタンガヨガの梯子という罠に非常にハマりやすい。つまり、ポーズをひとつひとつクリアしながら、梯子を一段一段上り詰めていくプラクティスを通して、なにかを求める強欲な心を、更に強固に育ててしまうのである。

アシュタンガはときに、主に敗者よりも勝者によって語られるような、厳しい仕事を割り当てる工事監督のような存在となりうる。とあるシニアティチャーは「だからこそ、こんなに素晴らしい結果が生まれるのだ」と語ったが(この発言を疑問に思う者も多いが)、その教義と厳格な頑固さの中で、どれだけの私達が傷つき、そして壊れていかなければならないのだろうか?

この教義と厳格さによって、「ジャンプして直接チャトランガに入れば肩を痛める」とか、「ドロップバックで足を外へ向ければ膝を壊す」といった、明白な事実を指摘することすら、はばかれてきたのである。

アシュタンガにおけるアクロバットのような曲芸的側面は、先天的に身体能力に優れた者がヒエラルキーの上位に置かれ、異例の速さで指導者として認められる現実に加担している。彼等彼女らのサーカス技術は非常に崇められ、まるで道徳倫理に根ざした誠実さや思いやりといった人間性よりも、アシュタンガヨガ指導者としての重要な資質として扱われている。

増強された我々の「なにかを求める強欲な心」は、指導者のアジャストに対しての批判をも放棄してしまう。時にアジャストは殆ど虐待的であるのだが、ポーズを先へ進めたい欲に駆り立てられた私達は、それすらも甘んじて受けているのが現状だ。

生徒それぞれの個性がアシュタンガという四角い穴にキッチリ治まるように、熱意にあふれた指導者が躍起になって、アジャストという釘を打ち付けている様は、まるで悪夢のようだ。

あまりに沢山のアジャストが無自覚になされ、生徒の身体は「寺院」どころか、ポーズの完成形を作り上げるための「戦場」として扱われている中、一体どれだけの正式指導者達が、ベカーサナやガルバピンダーサナ、マリーチアーサナBのアジャストで、生徒の膝や大腿骨を傷つけてきたことだろうか?

そしてこのような事故や怪我は、指導者の過剰な熱意と、「ポーズはこうあるべきである」という執着によって、現在も毎日のように引き起こされている。

つながりへの架け橋

しかし同時にアジャストは、適切に行われたなら、練習を勇気つけ、可能性を高める、パワフルなツールとなりうる。肉体の可能性の広がりを垣間見せ、不可能と思っていた地点へ達する手ほどきとなり、純粋な架け橋となるのである。

このようなアジャストには繊細さと技術を要し、他人を模倣することからは生まれない、ということを確信させる。なぜならそれは、愛と労わりから生まれるからである。

そして、そのようなアジャストは、現実には殆どありえない。そして私はアジャストを受けるたびに「愛はどこにあるんだろう?」と常に思っていた。

アシュタンガヨガの練習生を対象にした、怪我や事故の正式な統計はなされたことはないが、肩と腰の問題が多く見うけられる。膝関節の手術経験が、あたかも勲章のようにとらえられる環境で、永い経験を持つプラクティショナーはみな、どこか身体に不調を抱えている。

ただここで知っておくべきなのは、これは他の流派のヨガにもあてはまり、アシュタンガヨガでは膝の問題が多いように、アイアンガーヨガでは股関節の問題が多く発生する。

長い経験を積んだ真剣なアシュタンガヨガの練習生が、関節を過剰に酷使することを示す、沢山の逸話的な証拠がある。もちろん、人生そのものすなわち歳を重ねることそのもの自体も、これに加担してはいるのだが。

仮に、「ポーズの練習というのはパドマーサナ(蓮華座)を安全に組むためにある」のだとすれば、なにかがどうも間違っているとしか思えない。アシュタンガヨガでパドマーサナは常に右足から組むが、これは積み重ねた末にラクダの背骨を折ってしまう藁のようなもので、(訳注:イスラムの諺)、サードシリーズまで練習が進むと、右足を先にかけるのにはもうウンザリだ、と身体が悲鳴をあげるようになる。

癒しとしてのアシュタンガ

もちろん多くの人たちが、アシュタンガヨガを通して、ガンやその他の慢性的疾患から癒された経験があることも、よく知られており、病気の症状が改善された沢山の例もある。練習そのものは、確実に疾患回復の効果がある。

その理由のひとつとして、全身をくまなくストレッチすることには非常にセラピー効果があり、緊張の解放や、感情のこわばりをほぐすからである。アシュタンガヨガが癒しであることに異論をはさむ余地はないが、このプラクティス自体が、我々に「肉体を超えた広い視野」をもたらすかどうか、という疑問は抱きつづけるべきだ。

恐らく、ときに何かが間違ってしまう、ひとつの理由として、アシュタンガヨガには一種の傲慢さがついて回るからかもしれない。もちろん傲慢さだけがアシュタンガヨガを行う者の唯一の特性である、というわけではないし、ほかのスタイルやシステムのヨガだって、同じように傲慢ともいえる。

しかしアシュタンガヨガの傲慢さの中には、高いレベルの「肉体的熟練」が伴っている。「我々のこの肉体は時とともに衰え滅んでゆく」というのが、この不確実な世界における数少ない確実な真実のひとつであるならば、もし仮にそこに執着をすれば、おのずと苦しみがうまれてくるのではないだろうか。

ふたりの瞑想者が、このような問題について語っている。ツォキニ・リンポチェは「ハタヨガ実践者が、肉体のみを使った場合の落とし穴のひとつは、傲慢さである」と述べた。リドゥジン・シックポは「肉体的なヨガは、パワーとパワーの実感をもたらす。パワーの実感は、ヨガの練習の成果によって他者をコントロールできることから生まれる。肉体的なヨガの成果はまたプライドを生み出す。この種のプラクティスは達成にとてつもない努力を要するが、自身のこころと真っ向から向き合って働きかける難しさの足元にもおよばない」と記した。

このパワーと肉体性への固執は「アシュタンガヨガのタントラ」と呼んでもさしつかえないだろう。

ヨガシステムの観点からしても、アシュタンガヨガは、その呼吸とバンダとドリスティを強調する面からタントラ的であると断言しても、あながち間違ってはいないだろう。神聖なる肉体へのアプローチというものは、タントラからインスピレーションを得ている。

しかし過剰な執着という危険を避けるために、タントラヨガの修行者は、自らの肉体が朽ちて腐敗し骨から剥がれ鳥に啄ばまれ動物に食らわれていく過程を瞑想することで、バランスを図るのだ。

多分我々現代のアシュタンギは、火葬場を訪れたり、死を迎えるホスピスで奉仕活動等を通して、避けることのできない肉体のはかなさを再確認し、フィットネスクラブやボトックスでの若作りは決して、病と老化と死を回避することはできないことを心に焼き付けるべきではないだろうか。

からだのやわらかさ、こころのかたさ

この固執と傲慢と同様、長い経験を持つ練習生の中に見受けられるのが、こころの非柔軟性だ。これは、肉体的な柔軟性のレベルを考慮すると、とても皮肉的ではあるのだが。

たとえばある指導者は、他の場所で練習をしたがる生徒を罵倒したり、自分の生徒が他の指導者の手助けをすることを禁じたり、とあるサーティファイド・ティーチャーに至っては、生徒がブロックを使ってよいかと尋ねたときに、「だめです、それはヨガではありません」と答えたそうである。

分かち合う代わりにコントロールをしたがり、自己防衛的であったり、グループ派閥を作ったり・・・、まるで我々は一体なにを修行しているのだろうかと疑問視される、このような態度に効果があるのは、恐らく純然たるスピードで行うプラクティスであろう。

アシュタンガヨガの練習で、ポーズを5呼吸の間保持することは、実はとても上級の技であり、普通は呼吸は簡単に浅くなってしまうものだ。パタビッジョイスの指導とは別途に、「長い呼吸をすること。10秒間でひとつの吸う息、次の10秒間でひとつの吐く息」とリノ・ミヤレは推奨していた。しかし、たいていの練習中の呼吸は、これよりもはるかに短くなってしまう。

とある研究結果では、短い呼吸と激しい肉体的運動のコンビネーションは交感神経を刺激するといわれる。これは急性ストレス反応の「戦うか、逃げるか、すくむか」という状態である。これにより、私達は、自己防衛的になり、他者を排斥したり、独尊的になる。また一方副交感神経が働くと、結びつきあう能力が生まれる。これは、柔らかく、友好的で、くつろいでいて、ゆっくりと消化していく感覚である。

アシュタンガヨガの練習は、ともすると交感神経を刺激しかねないという説は、実際考慮すべき問題であろう。この早い呼吸の良い例として、シャーラートのプライマリーCDが上げられる。

この中で、それぞれのポーズを保持する5呼吸は、およそ20秒である。これは単純計算で一呼吸あたり4秒となり、ひとつの吸う息で2秒、ひとつの吐く息で2秒ということだ。この超高速呼吸で激しい肉体運動を行うとことは、すなわち「戦うか、逃げるか、すくむか」という反応を引き起こし、オープンで包括的で豊かで思いやりに満ちるというよりはむしろ、制御と硬直をもたらしてしまうことだろう。

だけど、オープンになり、全てを包括し、豊かで、思いやりに満ちることこそが、プラクティスの意義だったのではなかったか?実際ヨガというものは、肉体だけの問題ではなかったはずだし、仮にそうだとしたら、それは単なる体操でしかない。深い愛とやさしさによって、バランスのとれた洞察を、さらに高めていくような意識の変容そのものが肝心なのだと、わかっていてはいても、アシュタンガ・ボックスの中にいると、何故かそんな風には感じられなくなってしまう。

なぜならそこには競争や敵対する意識があって、なぜならそこに対話はなくて、まるでそれぞれが自分の帝国を死守しようとしているように見える。もちろんこれは人生と同じく、「アシュタンガヨガは、“既に存在していた傾向”を映す鏡でしかない」、という説を裏付ける証拠も沢山あるのだが。

しかし、たとえば仏教の学びにおいて生徒は、まさにその“既に存在していた傾向”を滅するため、常に違った伝統の違った指導者から学ぶことを推奨されるが、これは、「練習、練習、ただたすら練習、そうすれば全てはおのずとやってくる」というアシュタンガヨガ原理の中では、とうてい成立しない論理といえよう。

なにが起ころうとしているのか

多くのアシュタンギは、ポーズのシーケンスという肉体的な練習に終始するのみだが、さて、これは一体、なんのプラクティスなのだろう?

ひとりのアシュタンガ練習生が語ったことだが、彼はサードシリーズを練習することで、本当に“何か”が起こるだろうと期待していたが、実際なにも起こらなかった。その後、彼は次のフォースシリーズも完結したが、それでもなにひとつ変わらなかった。恐らく「なにも起こらなかった」という事実そのものこそが、彼にとっての最大の学びだったのかもしれない。

彼の現在のプラクティスは、週に数回スタンディングを行い、あとはただ座して自己を見つめることとなった。他の指導者の話をするときに彼は「自分の内を見つめて、その人に対して敵意や憎しみの気持ちがないかどうか確認す必要がある」と語った。

物質的な現実世界にのみ身を置く、その他大勢のアシュタンギとは対照的に、彼の誠実さは非常に深遠である。なぜならば、この瞑想の静謐さの中でこそ我々は、自己を明晰に省み、洞察深い純然たる意識を育むことが可能になるからだ。

確かにアシュタンガヨガは、我々に繊細な意識を持たせ、思慮深くさせてくれるかもしれない。しかし、肉体的なプラクティスのみを行う人々によって提唱された、「動く瞑想」というコンセプトも、我々の多くにとっては非現実的であることもしばしばである。

「動く」という行為によって我々は、自らを愉しませること可能だが、それは、この肉体的刺激に耽溺した状態に身を置くことで、自らの動揺や混乱を寄せ付けないよう防衛しているのかもしれない。黙して座し、自己の奥底を観照する、その純然たる静謐さは、こういった肉体を動かすことからは、生まれてこないだろう。

もし我々が、瞑想の退屈さを抱擁するように受け入れるならば、内面の静けさは完璧なまでの均衡状態となり、そのときに我々は喜びを求める飢餓状態から解放され、それまでの幸せを求める足掻きや、居心地の悪さとの戦いは、次第に和らぎ、ついにはリラックスするのである。

アシュタンガヨガのシステムでは、ポーズからポーズへと流れるように動くとき、意識をしっかりと向ける矛先が明確に示されている。が、しかし我々はただ肉体に固執するだけで、静謐さの中に溶けてゆくような深い地点までは向かおうとしない。

なぜならば、それを可能とするような妥当性が、システム自体に欠けていることもさながら、アシュタンガヨガが支持する伝統のひとつを崩壊させかねない矛盾を引き起こすからである。

すなわち、肉体のアサナは、八支則のうち6つめ7つめにあたるダーラナおよびディヤーナという、座して瞑想するための準備である、という伝統だ。我々の日々の汗と努力と血の涙はすべて、これらの支則によって、いとも簡単に下位へ貶められてしまうのだ。

私はアシュタンガヨガの練習がとても好きで、アシュタンガヨガが与えてくれるパワーを大切に思い、そのフロー、練習における集中は素晴らしいと感じている。しかし、それでも、そこには何かが欠けている気がしてならない。

「我々は非常に柔軟な身体を持つことはできても、こころは固いままだ」という事実を無視するかのように、なぜ我々は滑稽なまでに肉体の柔軟性に魅了され、情熱を傾けているのか。

多くのプラクティショナーに共通する問題として、瞑想やプラナヤマへのシフトを不可能にしているのは、アシュタンガヨガのシーケンス自体が、肉体にのみ留まっているからではないだろうか。

そして過剰なまでにインテンスな練習によって、視野を狭め、箱の外を見ることを押し留めてしまうというのは、いわゆる“カルト”に多くみられる傾向でもあるのだ。

こころのおそうじ

沢山のアシュタンギが、「瞑想をする時間がとれない」とこぼすのを頻繁に耳にする。もちろん、我々は常に様々な要求に応えるべく、せわしない日々を送っている。子育てをはじめとする責務や、この現実社会で生き残るための様々な困難などなど・・・。しかし、結局は、我々自身がなにを優先するか、というだけの話である。

パタビジョイスは瞑想を「マッド・アテンション(狂った意識の向け方)」と呼び、誰にも教えることはなかったという。

実際のところ我々は、常にせわしなく落ち着きのない心の領域においてよりも、粗大な肉体の中に自身を宿らし落ち着かせることのほうが、容易に行えるのである。

パタビジョイスはまた、こうも言った。
「これは肉体のプラクティスではなく、心のクリーニングである」

我々は、いつか、いずれかの時点で、自身の内面を深く見つめざるを得なくなるのだから、「アサナの目的は、長い時間にわたって瞑想ができるように、我々の肉体をチューニングするためである。」ということを、常々思い起こす必要がある。

身体的プラクティスにおいて、感覚や知覚が最も重要だとみなすならば、それは心のトレーニングよりも肉体性を優先しているということを意味する。心と肉体は、明らかに深長な重複と密接なつながりがあるが、しかし、心と肉体への働きかけには、歴然と異なったテクニックがあるのだ。

パタビジョイス直接師事した初めての西洋人のひとりノーマン・アレンは、パタビ・ジョイス(グルジ)へこう尋ねたそうだ。
「身体的プラクティスは、いったい私達をどのくらいの高みまで連れて行くのでしょうか?」

それに対するグルジの答えは非常に簡潔であった。
「たいていの場合、どこへも到達しない。ほかのステップに進まない限りは」

サキョン・ミパム・リンポチェは、チョギャム・トゥルンパによって設立された仏教ネットワーク・シャンバラのスピリチュアル・リーダーであるが、彼はパタビジョイスに学んだアシュタンガヨガのプラクティショナーでもある。

彼は、瞑想的な形式(仏教と呼ばれるもの)と、肉体的な形式(ヨガと呼ばれるもの)の間の大きな溝を埋める橋渡しの必要性を説いている。これらの瞑想的形式の説明として彼は、こう強調する。

「何が起きているのかを理解するためには、まず状況を安定させる必要がある。ゆったりとスローダウンし、我々がなにもので、なにをしているのか、をしっかりと感じ取らなければならない。瞑想という練習を通して我々は、マインドと知覚の混乱を通り抜ける術を学ぶのだ」

我々は精悍で引き締まったアシュタンガ的肉体を持つが、究極的には、それが一体なんだというのだろう?

この肉体的卓越さのどこに、我々が蛇だと思い込んでいるロープを目の前にしたときに、その本質を認識するための、既に条件つけられた存在からの解放や、事象現象への洞察や、慈悲の心へと繋がる経験が、あるのだろうか?

へびとロープ

おそらく、パタビジョイスとチョギャム・トゥルンパは共に、ロープはロープだと認識していたに違いない。二人は共に、南インドのブラーミンおよびチベット人として、自国の文化圏外の生徒などひとりもいない環境から、幾千もの西洋人の熱狂的な信者に囲まれる運命となった。この二人のアプローチは共に、良い意味での「トリックスター」と呼ばれるものであった。彼らは次第に規定や規則を作り出し、時に生徒達の覚醒のプロセスを手助けするために、愚弄することもあった。

中略(彼らの影響が勢力を増すにつれ、コミュニティが巨大化するにつれ、個々と向きあう指導がカリキュラム化されることになる)

そして近年のアシュタンガヨガの世界における明らかな変化は、グルジの死と、シャラートへの後継だろう。

興味深い変換期

グルの死というものは、得てして興味深い変革の時でもある。

最近のアシュタンガヨガの世界はまるで企業と化し、あたかもビクラムヨガのようなブランド化が顕著だ。シーケンスの厳格さが増し、金儲け主義に拍車がかかり、中央集権的コントロールがなされている。とあるプラクティショナーによると、シャラートによって最近導入された、オーソライズ指導者にとって必須となるマイソールでの2週間ティチャー・トレーニングは、容易に2日間ほどに要約される程度の内容にもかかわらず、1回あたり70人の指導者が各数十万円を支払い参加することで、アシュタンガヨガ界のヒエラルキーの中に留まろうとしている(注釈:このティーチャー・トレーニングへ参加しないとオーソライズの資格は剥奪される)

アシュタンガヨガはコントロールを保持するために、収入を保持するために、トレードマーク化していくのだろうか?ビクラムヨガのように、変革はビジネスとして進化することもあり得るのだが、自由を説く哲学の制度化、解放を約束するプラクティスの企業化を、果たしてどうやって防ぐことができるのだろうか?

恐らく問われるべきは、我々が常にどのような態度で世界と立ち向かうか、という事ではないだろうか。この世界の中で、洞察と優しさを持ちながら自立した個としてのパワーを高めていくのか、それとも、とりまく世界の支配に任せ個を見失っていくのか。

自由を得るということ、すなわち、自己変容のために必要となるのは、アウェアネス-常に注意深く気付いている状態、常に覚醒して用心深い状態、ということでもある。これと比較すると、単に肉体的身体をストレッチすることの方が、よほど容易であることに気がつく。そしてそれは、自分自身が精神的成長の旅路にあるという自覚を、時として迷わすこともあるのだ。

それぞれの異なった行程

恐らくこの精神成長の旅路は、とても時間のかかる行程なのだろう。

BSKアイアンガー師は「私の哲学的な指導は、ヨガの練習と指導を始めて30年後の1960年に入ってから、ようやく始まった」と語っているが、しかし我々にそのような長い期間を過ごす余裕が、はたしてあるのだろうか?特にあらゆるものがスピード化された現代生活において、静かに座ってマインドを観察するための時間が、どれだけあるのだろうか?

しかしこれは「一生涯をかけて悟りを成す」という意味ではなく、いずれかの時点で、それまでの何かが大きく転換(シフト)する必要が発生する、ということなのではないだろうか?では、我々は、このスピード化された現代社会の中、それ相応に充分迅速にシフトしているのだろうか?

道元禅師が長期の瞑想修行から戻った際に、弟子達から何を学んできたのかと聞かれ「やわらかいこころ」と語ったように、また、ダライラマが「最も幸せだったのはいつか?」と問われたインタビューに「いまこのときです」と答えたように、永きにわたる修行の末に、可能となるのは、こころの不安を少なくし、この瞬間に生き生きと存在できるようになるという、とてもシンプルなものなのだ。

それではアシュタンガヨガは、このような境地へ至る手助けをしてくれるのだろうか?私個人の見解としては、「よくわからない」という回答しかでてこない。確かに踏み石にはなるだろうし、純然たる意識へ向かう道筋の一部ではあるようにも感じる。しかし、大抵において、身動きが取れなくなったり、あまりに厳格で堅苦しくなったり、こだわりに固執しすぎてしまう傾向が、そこには歴然とあることも事実だ。

いったいなにがおきているのか?

しかし色々と検証していくと、このアシュタンガヨガ文化だけに留まらず、おそらく全ての「伝統的」な教えの中には、欠陥や弱点があることを、常に覚えておきたい。

例えば、禅寺でとある修行僧が精神に恐慌をきたした際、彼の師は「もし死にそうだと感じるのなら、どうぞ安らかに死んでゆきなさい」と言ったという。

またある女性指導者は参加した瞑想センターで「この瞑想を行うのであれば、あなたが行っている身体の練習は放棄しなさい。他の要素を禅に混合することは、我々の伝統の系譜からは逸脱しています」と諭され、いわゆる「正統派」に潜む頑固さと対面したという。

瞑想者の一部は、生への執着を絶つために、拒絶という瞑想ツールを用いる結果、冷淡で、距離感があり、つながりが希薄な印象を与える。

瞑想という世界においても、アシュタンガ同様、懸命なまでの努力と、それに伴う妬みの心を経験することになる。

この2年ほど思案してきたことを、このエッセイに書き留めてきたが、7世紀のチャンドラキルティ師の言葉は、常に胸に留めておきたい。

「己の信ずるものへの執着、他者の異なる意見への嫌悪・・・これらが我々の思考のすべてだ」

これまで自分の精神を構成してきたものは、心が形を成そうと揺れ動く、つかの間の閃きの集まりでしかない。つまり、呼吸をして、身体を曲げたり伸ばしたりしながら、分裂と対立を容易に生み出すことも、これまた人間の心の自然な摂理なのである。これは時にとても有益となるが、また時にそれは「ブランド構築と帝国の死守」という形にもなりうる。

よりよく生きるためのプラクティスとして、それぞれの異なった道筋が、どのようにその目的を指し示すか、というのはとても興味深いところである。そして問題は、ひとつひとつの小さなさざ波が、自身を大海原から切り離された存在として認識されることであり、その分離が恐怖を生み出している。そして、このような不安定さと、どのように対応するかということ自体が、プラクティスの目的のひとつでもあるのだ。

プラクティスの目的はまた、誤った知覚認識を克服し、自身の内と外とのつながりを可能にすることによって、様々な伝統が表現するところの、精神の煌き、すなわち、洞察と平安に満ちた、内なる空の輝きを発見することでもある。

ある人はつまづくが、ある人にはそんなことは起こらない。このアシュタンガヨガというツールは、とてもパワフルな変革をもたらすプラクティスではあるが、我々は自身のプラクティスを、好奇心をもって、見つめなおす必要があるのかもしれない。

私は、自分のプラクティスを巡るあれこれに、なんらかの意味づけをしようと試みている一人にすぎない。「裸の王様」を目の当たりにした少年のように、曇りのない目でクリアにものごとを見たいだけなのかもしれない。

私の個人的なアシュタンガに対する感情は、まず深い愛情と敬意がある。しかしそこには、表面的な部分における固執もある。私にとってアシュタンガヨガは、汗だくになって懸命に努力するよりも、アサナへの執着をあまり持たない穏やかなプラクティスを、日々の慣習的行為として淡々と行うことのほうが、より深い効果が得られるようだ。

プラクティショナーとして私達が常に自身に問いかけるべきは、果たして我々の行っているプラクティスは、宗教学者のハストン・スミスが語ったように

「気づきの意識、辛抱強さ、そして寛大さをさらに高め、現代社会の複雑さ、動揺、不確実さに対して、豊かな創造力をもって対処していくことを可能にする」

ということへ向かっているのか否か、ではないだろうか。

そしてできることなら、この道に異なる視点という、ちょっとしたスパイスをふりかける必要もあるかもしれない。そうでもしないと、この道はとても狭く堅苦しく、身動きとれないほど張り詰めすぎて、神経症にもなりかねない。

「我々はプロセスであり、ほどけるがごとく変容展開しているのである」

この詩人の言葉のように、真の自己の発見は、身動きのとれない状況からは決して生まれてこないはずだ。

特別な回答など、どこにも存在しない。それよりも大切なのは、どれだけ自身に対して誠実となれるか、そしてその誠実さを、優しさをもって調和させていけるか、なのだろう。そして望むらくは、常に疑問を持ち、可能な限りオープンになり、さらなる安らかな存在への道を、心から感じられるように。

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