「睡眠は負け犬のため」というユニークなスローガンの入ったノベルティグッズが、地元のお気に入りカフェでは販売されています。そういえばコーヒーは、いまや石油に次いで世界で最も取引される商品となりました。先日夫から聞いた話では、試験の前などは一晩中暗記用ヘッドフォンをつけてベッドに入る学生がいるそうです。そして巷を見渡せば、レッドブルを始めとするエナジードリンクは激増するばかりです。

このような社会に生きる私達アメリカ人の、その1/3が充分な睡眠をとっていないと聞いたところで、さほど驚きもしません。疾病予防管理センターは、「睡眠不足の普及はもはや公衆衛生上の”流行病”である」 とまで公言しているのですから。

たとえば戦場のように、生き残るために常に警戒が要求される状況では、睡眠は損害を意味します。しかし安全な環境に生きる私達が、常に睡眠を差し控えて、過覚醒な状態を保つ必要はあるのでしょうか?「眠らせない」という拷問の方法がありますが、私達が充分な睡眠を否定することで、拷問と同じ暴力を自らに課すというのは、なんとも不可思議な被虐趣味としか思えません。

生きていくためには睡眠が必要ですが、なぜか私達はその必要性に対して、いつも嘆きつつ抗ってばかりです。昼寝をする機会を”手にいれたい”と感じながらも、実際に昼寝が日常に組み込まると、罪悪感が湧き上がり、まるで私達は、十分な睡眠は”贅沢行為だ”と信じているかのようです。良い睡眠は、良い食事と同様、健康的な生活における重要な要素だと知ってはいても、サラダを”手に入れたい”とか、健康的な食事を”贅沢行為だ”、とは思わないものなのです。

どうやら私達は、睡眠への自然な欲求との付き合い方が、不自然に捻れてしまっているのかもしれません。果たして、私達の奥に潜むどのような感情が、流行病的傾向ともいえる”睡眠に対する軽蔑”という態度をもたらすのか、その潜在する原動力を探っていきましょう。

注意:これから述べる内容は、子供が生まれたばかりだったり、家族の介護に追われていたり、昼夜を問わず働き続けなければならないといった、睡眠をとりたくてもとれない環境にある方々ではなく、「十分な睡眠をとるか否か」を選択する余地のある方々を対象としていることを、ご理解ください。

さて、私達の多くが抱える”疲労感”は、まるで”名誉の勲章”のようなもので、義務感に囚われたプライドによって使い古されていることが、ほとんどです。そして、この”疲労感”は大抵、「とても忙しい」という不満のカタチで表現されます。

疲れていたり、忙しいときの私達は、無意識のうちに「それほどまでに自分は重要である」というサインを示しています。例えば自分が、”常に充分な睡眠をとっている”などと認めたら最後、一気に怠け者の烙印をおされる気がして不安になるものです。

しかし、考えてみましょう。貴重な睡眠を犠牲にしてまで、世界は私達をそんなに必要としているのでしょうか?私達の時間に、それほどの価値があるのでしょうか?世界は私達を抜きにしても、充分回っていると思うのですが・・・。

ある意味、睡眠への自然な欲求は、”常に何かをコントロールしていたい”という私達の囚われへの、チャレンジのように見えます。なぜならば、睡眠は私達に”手放す”とこを余儀なくさせるからです。私達が眠っているときは、多くのものが、私達のコントロール制御の手を離れてしまいます。睡眠中には、メールやフェィスブックをチェックすることも、取引を行うこともできません。それどころか、他者と交流を持ったり、計画を立てたり、何かを行うことひとつできないのですから。

睡眠というものは、私達の”分断されていない真の自己”が現れる、人類が持っている唯一の行動なのかもしれません。どれだけ頑張ってみても、眠っているときには、”眠っていること”以外には、実際なにもできないのです。この事実は、「人間は単なる”存在”に過ぎない」のだ、というE.E.カミングスの言葉を、私達に思い起こさせてくれます。

また詩篇には、こう書かれています。
「見よ、イスラエルを見守る方は/まどろむことなく、眠ることもない。主はあなたを見守る方/あなたを覆う陰、あなたの右にいます方。(121.4-5)
人類の意識の源であり、常に覚醒した存在である、聖なる方こそ「人生の番人」であり、その役目は私達の肩に、重くのしかかることは決してないのだ、と、ここに明確に記されています。

”止むことなき警戒と用心”は、創造者の領域であるにも関わらず、なにゆえ私達は”まどろむことなく、眠ることもない”ように懸命に試みるのでしょうか?どれだけ抗おうとも、私達は自然と睡眠を必要としている、という事実。それは、つまるところ、私達は人生の全ての局面において、「神のような番人」とはなり得ないのだ、と伝えているような気がします。

そしてまた睡眠は、私達には”限界”があるのだ、という事実と向き合う機会を与えてくれます。

この地球における人生の一部として、私達の自然の欲求と限界があるのだ、という理解をするどころか、この直面しがたい事実から目を背けたいがあまり、私達はちょっとした弱さや脆さの兆候に対して、過剰反応しては、そこから逃げ続けています。

このように、”人類の有限性と依存性を認められない”というのは、私達が犯している過ちのひとつです。それがゆえに、避けられない肉体の老化や、休息の必要性に対して、つい蔑んだ気持ちが生まれてきます。私達は、この肉体に刺激物を流し込み、睡眠を削り、生産性という無慈悲な神々に服従し、あたかも”我々は無敵である”、という空想に逃避しているのかもしれません。

睡眠は決して負け犬のものではなく、有限の命をもつ私達すべてのためのものです。しかし、睡眠の意義を勝手に書き換えることで、私達は人類の有限性を無視しようとしています。たゆまない努力と、休むことのない生産と消費によって、私達の肉体だけでなく、地域社会や労働者、そして土地までもが、酷い疲弊に陥っているのです。

地球の自然なリズムにおいて、休眠は命のサイクルの一部です。私達はみな休息が必要です。畑には休閑の時期が必要ですし、動物は冬眠が必要です。創世記においては、全ての創造における聖なるサイクルの一部として、また創造者が真実を語る日として、7日目の安息日が認められています。創世記では、神ですら休息をとるというのに、私達ときたら、睡眠を軽視し、創造の休息のリズムからはみ出し、まるで不協和音を奏でているようなものです。

この”睡眠”といった、聖なる魂の摂理として現れる、私達の肉体の自然な欲求に、敬意を表す方法を学ぶことで、これまでの「肉体と対立する姿勢」に別れを告げ、私達の有限の命を認めていく、その1歩を踏み出すことができるのではないでしょうか。

「偉大な仕事はすべて、眠っている間に行われた」

と書いたのはウェンデル・ベリーですが、確かに、私達のつぎ込む多大なエネルギーを抜きにしても、この世界はいまだに活動を続け、まだまだ盛んに成長しています。だとすると、”神のような、不休の、人生の番人”である努力は、天使よりもほんの少し下層に作られた私達人類にとっては、本当は必要ないのかもしれません。


情報元: Huffington Post
http://www.huffingtonpost.com/lynn-casteel-harper/spiritual-dynamics-of-sleep-deprivation_b_1253740.html?ref=mindful-living&ir=Mindful%20Living
What Lack Of Sleep Does To Your Spirit
日本語訳: 三輪由美子

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