私たちは、自分以外の人や動物や社会とかかわることで、生きています。

いわゆる「つながる」ということは、互いが自分を開き、受け渡し、相手を受容し、そして共に新しい流れを生み出す共同作業なんだと思います。

だから私たちは笑い、驚き、怒り、悲しみ、喜ぶことができるし、だから私たちは愛し、許し、共感し、慈悲の心を持つことができるんですよね、なんかすごいことです。

いまはネットの世界で、いつでも、どこでも、他者と「つながる」ことができる、と誰もがそう言います。

facebookで写真や近況をアップしたり、Twitterでつぶやいたり、Lineでリアルタイムでお喋りしたり、いままでなら、ひとりで自分や周囲の環境と向き合っていた時間を、遠く離れた友人とバーチャルに共有することができます。

たとえば、外出先で「あ!」と思った光景を、写真に収めてはSNSに投稿し、友人や見知らぬ他者と感動をシェアすることで、自分は独りぼっちではなく共感してくれる仲間がいる、という心地よい安心感を味わえるし、反対に、他者との繋がりがウザくなってきたら、いつでも私たちには「レスポンスしない」もしくは「スイッチを切る」という選択があり、リアルな人間関係のようなシガラミや煩雑さとは無縁なのですから、なんとも便利な世の中になったものです。

そういえば、スマホもパソコンも、自分の携帯すらなかった昔の自分は、どんな風に、他者や世界と関係性を築いていたかしら?と思うことがあります。

私自身の思春期~青年期は、携帯が普及する前だったから待ち合わせも真剣勝負だったし、一緒にいる”このときにこそ”とばかりにやたら喋っていたし、感動的な景色やライブを目の前にしたときは、写真や動画で記録を残そうとする以前に、その”感動”自体に身を任せていた気がします。

自分の外側に世界がある、のではなく、大きな世界の中に自分がいる、そんな感覚。

現在のクールでスマートな生き方と比べたら、ずいぶんと要領悪くてダサいし、あまりに体当たり的すぎてみっともないコトも多々あったけど、その分より豊かに、ディープに、生き生きと瞬間を楽しんでいたのかもしれないなぁ。。。なんて、これらの記事や動画を見ながら、そんなことを思っていました。


「ネット世界に入りこんでいるときのあなたの顔」Huffington Post Japan

ネットを通じて、世界中の友人知人とリアルタイムでつながっている連帯感や安心感。まるで世界が広がったような感覚を持ちながら、PCの画面の前にいる私達の表情は、ときにゾッとするほど不気味に無表情で、孤独な影を落としています。


短編作品 “I forgot my phone”
誰もかれもがスマホに夢中。そんな日常に違和感を感じる少女のショートストーリー。かなり誇張されてはいるけれど、多かれ少なかれ、こんな現実の中で私達は生きています。あなたが語りかけているのは、目の前の私なのですか?それとも、その画面に映る私なのでしょうか?


Gary Turkの短編動画”Look Up”
ネットを介して沢山の友達とつながっているけれど、この「ソーシャルメディア」にアクセスしようとPCやスマホ、タブレットを開けるとき、僕らは現実社会の扉を閉じてしまうんだ・・・そう語る彼のモノローグは、現代の私達の生きる社会における「リアルな実世界からの乖離」という非ヒューマニズムを危惧し、「スマホのスイッチを切って、視線を上げよう(=目の前の現実社会で生きよう)」と語りかけます。

2世代前ならば、さしづめ寺山修司の「書を捨てよ町へでよう」のように、いつの時代も人間性の希薄さを憂う声というものが、私達の凝り固まった視点に新鮮な気づきをもたらしてくれるようです。

 

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